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また、その他資産運用に関する様々なコンテンツをお届けします。歴史を知るといろんなことが楽しくなる。作家・板谷敏彦さんに聞く、最新作「国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯」執筆の背景 – 前編
今回の対談ゲストは、石川島播磨重工業を経て日興證券へ転職し、2006年には和製ヘッジファンドを設立するなど、長年、運用の世界で活躍した後、作家となった板谷敏彦さんです。板谷さんの初の著作『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち―』(新潮選書)を読んで感銘を受けた小屋は、つづく2作目『金融の世界史―バブルと戦争と株式市場―』(新潮選書)を仕事の教科書、副読本としてMLPの若手社員に勧めているほどです。
そこで今回は、週刊エコノミストでの4年半にわたる連載をまとめた最新作『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯』(新潮社)について、板谷さんにたっぷりとお話をお聞きします。前編では作家になるまでのご自身のキャリアについて、後編では最新作完成までの経緯について、さらに歴史を知ることと資産運用の関係についてもうかがいました。
板谷敏彦(いたや・としひこ)
作家 / コラムニスト
関西学院大学経済学部卒。卒業後石川島播磨重工業に入社、横浜造船所で溶接やガス溶断、機械職など1年間の現場実習。船舶営業を経て日興証券へ転職。外国株式業務からNY現地法人へ派遣。当時米国でも勃興期のインデックスバスケット執行とプログラムトレーディングに従事。 帰国後は東京にて金融法人向け株式執行やデリバティブス、クォンツ分析、大型ポートフォリオヘッジなどを担当、その後クレディ・アグリコル・インドスエズ、ドレスナー・クラインオート・ワッサースタイン証券のマネージング・ディレクターを経てみずほ証券へ。みずほ証券では株式営業統括、国内外金融法人、地方金融機関なども担当した。 2006年独立してクォンツ運用手法によるヘッジファンドを設立。2012年『日露戦争、資金調達の戦い』を上梓以降は作家専任となる。
<書籍情報>
<関連サイト>
小屋 洋一(聞き手)
株式会社マネーライフプランニング(公式サイト) 代表取締役
1977年宮崎県生まれ、東京育ち。2001年慶應義塾大学経済学部を卒業し、総合リース会社に入社。中小企業融資を担当した後、
2004年不動産流通業を行うベンチャー企業に転職。営業、営業企画等を経験し、2008年に退職。
同年にAFPを取得後、独立し、個人富裕層のアドバイスに特化した株式会社マネーライフプランニングを設立。
2010年にCFP®を取得し、現在に至る。
<所属・関連団体>
<SNS>
小屋板谷さんのプロフィールを拝見していて、大学を卒業後に就職されたのが石川島播磨重工(以後、IHI)で、そこから日興證券に転職されていますよね。重工業から証券へ、さらに何度かの転職を経て作家になられました。この舵取りが不思議で、まずはこれまでのキャリアについてじっくりうかがってもいいですか?
板谷敏彦さん(以下、板谷)もちろんです。僕は関西学院大学出身で、フェンシング部に所属していました。学生時代はいつも学生服かジャージで、勉強もあんまりしていないような学生でしたが、リーグ戦も終わった4年生の時、アジア人学生を支援するプログラムでスタンフォード大学の夏期講座に行ったんです。そこでものすごく触発されて、歴史や経済、その他さまざまなことを勉強するようになりました。
小屋触発された、というと。
板谷英語はそこそこ喋れたんですが、例えば、米人の学生たちがボートピープル(※)についての話を始めるわけです。でも、当時の僕はボートピープルのことを知らなかったから、ボート部のメンバーが足らなくて募集してるのかな……? なんて解釈してたので、話がかみ合わない。馬鹿だし、本当に軽蔑されちゃって。当然ですよね、彼らはベトナムの難民をどうするか話しているのに。そういうすれ違いが何度かあって、学ぶことへの取り組み方が一変する恥の経験でした。
※ボートピープル……1970年代から80年代。ベトナム戦争の戦火と混乱から逃れるため、何十万人もの難民が粗末な船で命がけで海を渡り、「ボートピープル」と呼ばれた。
小屋卒業後、IHIに入ったのはどうしてだったんですか?
板谷兵庫県の西宮生まれなので、製鉄会社で働く父親の影響もあり神戸の造船所が身近な存在だったんです。子どもの頃から船を見るのが好きで、漠然と造船に憧れていた。それで、IHIです。当時、造船が衰退しつつあったなかで、造船を希望する私は変わり者だった。おかげで造船部門への希望がすんなり通って、7年ぶりの大卒文系社員として、横浜造船所に配属されました。
すぐに新入社員向け2ヶ月の現場実習が始まり、文系・理系の出身関係なく、溶接やガス溶断、玉掛けなど一通りの実技研修を受け、座学でコンピュータと英語。その充実した研修が終わろうかという頃に人事部長から「板谷くん、もう1年じっくり現場をやってみないか」と声がかかった。
小屋さらに現場ですか。
板谷ベテランの機関科エンジニアの指導員がついてくれて、エンジン、配管、鉄板など、清掃や塗装といった作業ではあったけど、現場の仕事をさせてもらいました。その後にエンジニア実習を数ヶ月受けて、とにかく船のことがよくわかるようになったところで、営業に配属されました。新入社員130人中一人だけでした。独身寮では皆ネクタイをして出社するのに、僕だけタオルを首に巻いてましたね。
小屋造船所の営業はどんな仕事をするんですか?
板谷外に出て注文を取ってくるのではなく、船の修理のマネジメントをするんです。造船所で工事中の船を受け持って、修理の工程、出航までのプロセスを管理する。英語で言うと「シップマネージャー」ですが、なぜか日本語では「営業」というんですよ。
小屋なるほど。船のオーナーとやりとりしながら、全体をマネジメントしていく。
板谷例えば、出張してきたフェリーやコンテナ船のオーナーと話しながら作業工程と費用を決め、値段の交渉をしていく。最後の最後に請求書を出して、お金のネゴシエーションをするんですが、顧客の大半は様々な国の人で、緊迫する場面も多くて、鍛えられました。
小屋IHIでの船の仕事は長くやられたんですか?
板谷いや。現場実習1年、営業としては2年間です。造船不況が再燃して、減産に次ぐ減産。船を愛する現業の先輩方が次々とリストラされ、陸での仕事に出向していきました。朝礼で涙を流しながら挨拶をする姿を見ているのが辛くて。それで辞める決意をしました。当時は経済のことをすごく勉強していました。
ひと通りの仕事を覚えさせてもらって、これからというときに「辞めます」と言い出したから、上司も思うところはあったはずなんです。だけど、みんな本当に寛容で「止めないから」と、送別会まで開いて送り出してくれました。
そこから心機一転、転職したのが日興証券です。1984年のことでした。
小屋証券業界を選んだのはどうしてですか?
板谷新聞を読んでいて、これからは証券だ、と思ったからです。金融自由化が進み、東証が外資に門戸を開き、各証券会社が国際要員を募集する求人広告を出していた。当時、造船以外にも、商社や鉄鋼も構造不況に入っていて、そこから証券業界にたくさんの人がシフトしていました。
日興だけでも、その年の中途採用者が40人くらい。皆が国際金融を志望するなかで、僕は外国株式を扱うトレーダーを希望して、兜町の株式部門に配属されました。職場の雰囲気も含めて、この仕事がとにかく肌に合って楽しかったですね。
入って2年目に、ニューヨークに新しい株式の部署を作ることになって、そこで、「おまえ行け」という話になったわけです。
小屋アメリカ勤務は何年くらい?
板谷6年ですね。当初部下を2人つけてくれて米国株の部門を立ち上げたのですが、当時は日本株をアメリカに売る部門がメインだったので、稼ぎも無いし、最初のオフィスは部屋じゃなくて、廊下でしたね。そこに机が2つ置いてあって、「ここを使え」と言われたりして(笑)。だけど、時代背景もあってすぐに大きくなりました。このニューヨーク勤務時代に歴史への興味が増していきました。
小屋そうなんですね。
板谷仕事の会合なんかで顧客や同業者と話すと、歴史の話が普通に出てくる。金融工学やファイナンスの勉強をしてきた彼らは、とくかく本をたくさん読んでいて、金融史も学んできているので「ギリシャ時代は〜」「ローマ時代には〜」「1929年の大恐慌では〜」と引用しながら話してくる。教養として歴史を知っていて当然、そんな空気にさらされたわけです。だから話に追いつくためにすごく本を読みました。
板谷日本に戻ってからは、生命保険会社、信託銀行などの金融法人の営業を長く担当しました。今でも本を出すと、当時のお客さんだった方が出版祝いをしてくれます。いい関係が続いていて、本当にありがたいです。
日興を退職したのは、米シティグループとの合弁で投資銀行業務専業の日興ソロモン・スミス・バーニー証券会社ができる前後でした。欧州系のクレディ・アグリコル・インドスエズから日本支社の再建をやらないか? と声がかかったんですよ。
小屋ヘッドハンティングですね。
板谷当時、クレディ・アグリコル・インドスエズのアジアのヘッドオフィスは香港にあって。そこに面接に行ったら、分厚い冊子を渡されて「全部の資料が入っているから1日かけて読んで、やるか、やらないか判断してくれ」と。
そんな感じで外資に移り、デリバティブスと海外ヘッジ・ファンドの販売を中心に仕事も上手くいき、しばらくして発展的にドレスナー・クラインオート・ワッサースタインに移籍しました。
小屋その次に移られたのが、みずほ証券ですね。
板谷株式本部の営業統括に4年いました。この時期に海外とともに日本全国の地銀を全部、回りました。それが日興フロッギーで連載している『思わずドヤりたくなる! 歴史の小噺』につながっています。
小屋県ごとの歴史はもちろん、観光やグルメの小話もプラスされていて、楽しい連載ですよね。
板谷海外に長くいたせいでしょうか、本当に地銀を回るのはおもしろかったですよ。出張先が決まると、佐藤政則先生(麗澤大学)が編纂した『日本地方金融史』(日本経済新聞社)という本を開いて、鹿児島県なら鹿児島県の金融史を読んでいくわけです。薩摩には島津家があって、キーマンになる豪商がいて、東京と大阪の有力者とつながり、ナンバー銀行(※)が設立され、それが今の鹿児島銀行に集約されていく……という流れがわかる。
これを各県でやっていったら、自然と地方企業の研究をやっている学者、郷土史家の知り合いも増えていって。どんどん歴史に詳しくなっていく手応えがありました。
※ナンバー銀行……日本の銀行の歴史は、1872年の「国立銀行条例」に始まり、翌1873年、第一国立銀行(第一銀行)が設立されたのを皮切りに、全国各地で番号を冠した銀行=ナンバー銀行が設立されていった。最後に設立されたのは1879年、第百五十三国立銀行。現在も残っているのは、第四銀行(新潟市)、十六銀行(岐阜市)、十八銀行(長崎市)、七十七銀行(仙台市)など。
小屋そうして、独立されたのが2006年。
板谷投資顧問会社を設立しました。自分でファンドを始めたわけだけど、リーマン・ショックの手前で一度精算して、もう1回募集をかけるタイミングで、ファンドの知名度を上げようと思って、宣伝用に最初の本を書き始めたんです。
小屋そうなんですか! 驚きました。『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち―』はマーケティングというか、宣伝ツールだったんですね。
板谷そうです。ところが、構想を思いついてから原稿が書き上がるまで2年くらいかかってしまった。これは誤算でした。その間にクオンツ系ファンドの世界では、本格的な数学者が参入し、コンマ何秒でスプレッドをモニターし、売り買いを繰り返すような手法が広がって、自分が時代遅れになってきているのがわかった。残念だったけど、中途半端な気持ちで続けてもいいことはないからと、辞めました。
一方で、出版した本は予想外に評判が良くて、それで作家の道へ入ることになったわけです。